『誰に売るの?』の声にどう向き合うか:未知の市場創造で、組織を動かした説得と共創の軌跡
未来への問い:市場が存在しないアイデアへの挑戦
今日のビジネス環境は変化が速く、既存市場の延長線上にない、全く新しい市場を創造する新規事業の重要性が高まっています。しかし、そこには顧客も競合も不在という、根本的な不確実性が存在します。このような「市場が存在しない」アイデアを、経験や実績を重視する傾向のある大手企業の中で推進することは、特有の困難を伴います。
今回は、まさにこの壁に挑み、組織の懐疑的な視線を乗り越えて未知の市場創造に向けた一歩を踏み出した、ある挑戦者の軌跡を辿ります。彼がどのようにして「誰に売るのか?」という最も根源的な問いと向き合い、組織を動かし、共感を広げていったのか。その道のりから、既存の枠にとらわれずに未来を切り拓くための示唆を探ります。
アイデアの源泉と描いた未来
プロジェクトの出発点は、既存事業の周辺領域における漠然とした「未来の可能性」でした。特定の技術シーズや、社会の変化から生まれるであろう新たなニーズに着目し、「もしこんな世界が実現したら、人々の生活やビジネスはこう変わるはずだ」という強い仮説からアイデアは生まれました。具体的な製品やサービスの形というよりは、まずは「未来のあるべき姿」を描くことから始まったのです。
目指したのは、単なる製品販売ではなく、人々の行動や価値観に影響を与え、新しい文化や習慣を生み出すような、インパクトのある事業でした。しかし、このアイデアは当時の社内には前例がなく、比較対象となる市場も存在しませんでした。
「誰に売るの?」という壁:市場不在の困難
アイデアを具体化し、社内に提案し始めた時、最も頻繁に浴びせられた言葉が「それは、一体誰に売るのですか?」という問いでした。この問いは、単なるターゲット顧客の定義を求めるだけでなく、事業としての蓋然性、つまり「本当に市場が生まれるのか?」「収益化できるのか?」という根本的な懐疑を内包していました。
直面した困難は、主に以下の点に集約されます。
- 市場データの欠如: 既存市場であれば市場規模、競合、顧客ニーズに関するデータがある程度存在しますが、未知の市場にはそれがありません。定量的なデータに基づいた事業計画を求められても、提示できるものが限られていました。
- 既存評価軸の不適合: 大手企業の事業評価は、既存事業とのシナジー、市場規模、投資回収期間など、既存の尺度に基づきがちです。しかし、未知の市場創造では、これらの尺度での評価が困難であり、社内の承認プロセスに乗せることが大きな壁となりました。
- 組織の懐疑: 「前例がない」「リスクが高い」「時期尚早ではないか」といった声は根強く、アイデアに対する熱意や可能性よりも、不確実性への懸念が先行しました。特に、既存事業が安定している部署からは、リスクを冒してまで新しいことをする必要があるのか、という消極的な意見も聞かれました。
- 顧客像の曖昧さ: ターゲットとなる「未来の顧客」はまだそのニーズ自体を明確に認識していない可能性があります。アンケートや既存の顧客インタビューだけでは、潜在的なニーズや価値を掘り起こすことが難しく、具体的な顧客像を共有することに苦慮しました。
- 関係部門との溝: 研究開発部門からは技術的な実現可能性は示されても、事業部門からは「どうやって売るのか分からない」「自分たちの顧客層とは違う」といった反応があり、部門間の理解と協力を得るのに時間と労力を要しました。
これらの壁は、定量的な裏付けや既存の成功パターンがない中で、アイデアの「可能性」や「未来像」だけで組織を動かすことの難しさを示していました。
困難克服への道のり:未来を「見える化」する
「誰に売るの?」という問いに対して、彼が取った戦略は、「未来を『見える化』し、共感を呼ぶこと」でした。単に机上の計画を提示するのではなく、感覚的にも理解できる形でアイデアの可能性を示すことに注力したのです。
具体的なアプローチは以下の通りです。
- 「未来の顧客」を徹底的に深掘り: デスクリサーチに限界があることを認め、潜在的な顧客候補のいる場所へ積極的に足を運びました。インタビューではなく、行動観察や共に時間を過ごすといった質的なリサーチを重ね、「未来の顧客」が抱えるであろう本質的な課題や、アイデアがもたらすであろう感情的な変化を深く理解しようと努めました。これにより、単なるデモグラフィックな属性ではない、生きた「ペルソナ」を具体的に描き出しました。
- 「体験」を通じて価値を伝える: 抽象的なアイデアや概念だけでは伝わりにくいと考え、ミニマムなプロトタイプやコンセプトムービーを作成しました。「未来の顧客」がアイデアを体験した時に何を感じ、どのように行動が変わるのか、そのストーリーを具現化しました。社内外の関係者にこの「体験」を提供する場を設け、アイデアがもたらすであろうインパクトを体感してもらうことに注力しました。
- 共感を生むストーリーテリング: 収集した定性的な情報(顧客候補のリアルな声、行動観察から得られた洞察)を丁寧に整理し、アイデアがなぜ社会にとって、そして会社にとって必要なのかを語るストーリーに組み上げました。データがない代わりに、人の感情に訴えかける narrative を重視し、関係者一人ひとりの心に響くように伝え方を工夫しました。
- 賛同者を特定し、共に未来を語る: 社内には必ず、新しいものに興味を持つ人や、描く未来に共感してくれる人がいます。そうした潜在的な賛同者を早期に特定し、彼らを巻き込みました。非公式な場での対話、アイデアソン形式のワークショップなどを通じて、一方的な説明ではなく、共に未来を語り、アイデアを磨き上げるプロセスを意識しました。これにより、「彼らのアイデア」として捉えてもらうことで、社内に小さな仲間を増やしていきました。
- 事業進捗を示す新しい指標: 既存の財務指標や市場シェアといった指標が使えないため、代替となる新しい指標を設定しました。例えば、「未来の顧客」候補からのエンゲージメント率、プロトタイプへのフィードバック数、共感を示してくれた社内外の専門家の数など、事業の「可能性」や「兆候」を示す独自の評価軸を提案し、定期的に進捗を報告しました。
成果とそこから得られた学び
これらの粘り強い活動の結果、徐々に社内の雰囲気が変化し始めました。「誰に売るの?」という問いかけは、「こんな人たちに、こんな価値を提供できるかもしれない」という具体的な議論へと質的に変化しました。プロトタイプの体験会には予想以上の参加者があり、熱心なフィードバックや共同検討の申し出が増えました。
最終的には、限定的なパイロットプロジェクトとして予算とリソースを獲得することに成功しました。これは単なるPoCではなく、描いた未来の一部を小さく実現し、実際の顧客候補との接点を持つための最初のステップとなりました。
この挑戦から得られた最も重要な学びは、不確実性の高い新規事業、特に市場創造においては、定量データだけでなく、「未来の顧客像」や「アイデアがもたらす体験価値」といった質的な要素をいかに具体的に描き、組織内で共有し、共感を得られるかが鍵となるということです。また、一方的な説明ではなく、対話や共同作業を通じて関係者を巻き込み、「自分ごと」として捉えてもらうための泥臭いコミュニケーションが不可欠であることを痛感しました。
まとめ
「市場が存在しない」という壁は、既存の枠組みで思考し、判断しようとする組織にとっては非常に高く感じられます。しかし、その壁を乗り越えるためには、データや論理だけでは不十分であり、描く未来の「リアリティ」をいかにして関係者と共有し、共感を呼び起こすかが決定的に重要になります。
未知への挑戦は、常に疑問や抵抗を伴います。しかし、具体的な「未来の顧客像」を描き、その顧客が体験するであろう「価値」を形にして示し、粘り強く対話を続けることで、組織内の懐疑は可能性への期待へと変わり始めます。この挑戦者の軌跡は、データがない中でもビジョンを信じ、組織を動かし、新たな市場を創造するための具体的な道筋を示唆しています。