『「社会貢献性」の価値をどう示すか:既存の財務評価基準を越え、長期的な価値創造を組織に根付かせた軌跡』
既存の「モノサシ」が通用しない新規事業の壁
新しいアイデアや技術が組織に受け入れられるまでには、様々な壁が存在します。特に、既存事業の延長線上にはない、あるいは従来の収益モデルとは異なる性質を持つ新規事業ほど、その壁は高くなる傾向にあります。今回お話を伺ったのは、大手企業内で社会課題解決と長期的な価値創造を目指すプラットフォーム事業を推進されたA氏です。A氏は、この事業が直面した最も大きな壁の一つが、「既存の財務評価基準や短期収益志向の組織文化」であったと語ります。
社会課題解決と長期的な価値創造を目指して
A氏が構想したプラットフォーム事業は、特定の社会課題(例えば、高齢化地域での生活支援、再生可能エネルギーの地域内循環など)を技術で解決し、その過程で新たな地域経済やコミュニティを創出することを目指すものでした。これは、既存の主力事業のように「製品を売って利益を出す」というモデルとは異なり、非財務的な価値(地域住民の生活の質の向上、環境負荷の低減、新たな雇用創出など)が先行し、収益化は中長期的な視点での検討が必要となる性質を持っています。
この事業の目的は明確でした。企業のパーパスに基づき、持続可能な社会の実現に貢献すると同時に、短期的な売上や利益に左右されない、企業の新たな柱となる価値基盤を築くことです。しかし、この崇高な目的が、皮肉にも社内での大きな壁として立ちはだかることになります。
「それは本当に儲かるのか?」組織の厳しい問い
事業構想を社内で説明し始めた当初、A氏が最も頻繁に受けた質問は、「それは具体的にどう儲かるのか?」「ROIはどのくらいになるのか?」といった、短期的な財務リターンに関するものでした。当然、事業の初期段階では、大規模な収益は見込めません。投資先行となり、当面は赤字となる可能性が高いことを正直に伝えざるを得ませんでした。
組織は過去の成功体験に基づいた評価基準、すなわち「売上成長率」「利益率」「投資回収期間」といった財務指標を重視する文化が根強くあります。A氏の事業は、これらの指標だけではその価値を十分に測ることができませんでした。社会的なインパクトや長期的な視点での企業価値向上といった非財務的な価値を強調しても、「それはあくまで副次的なものではないか」「本業で稼いだお金を慈善事業に回すのはどうなのか」といった、厳しい声や懐疑的な視線が向けられたといいます。
また、限られた社内リソース(予算、人材)の取り合いも避けられません。他の既存事業部門や、より短期的なリターンが見込める新規プロジェクトと比較され、「なぜ、この収益性の低い(あるいは不確実な)プロジェクトに貴重なリソースを割く必要があるのか」という問いに常に答え続けなければなりませんでした。承認プロセスも複雑で、複数の部署や役員会の承認を得るためには、彼らが理解できる言葉、つまり既存のビジネスロジックや財務的な説明が求められました。しかし、それがこの事業の最も本質的な価値を覆い隠してしまうジレンマに苦しんだとA氏は振り返ります。
非財務指標の可視化と小さな成功の積み重ね
これらの困難に対し、A氏はいくつかの具体的なアプローチを取りました。まず、「儲かるのか?」という問いに真っ向から対峙しつつも、評価軸そのものを多様化させる試みです。事業が生み出す非財務的な価値(例:サービスの利用者数とその満足度、地域コミュニティへの影響度、環境負荷低減効果など)を定量化・可視化する独自の指標(KPI)を設定しました。そして、これらの指標が、長期的に企業のブランド価値向上や新たな顧客層の獲得、規制対応リスクの低減といった形で、間接的に、あるいは将来的に財務的な価値に繋がる可能性を、具体的な事例やデータを用いて根気強く説明しました。
次に、事業の進め方です。最初から全国展開といった大規模な計画を提示するのではなく、特定の地域に絞った小規模な実証実験(PoC)を複数実施し、そこで得られた社会的なインパクトや顧客からのポジティブな反応を、社内外に積極的に発信しました。これにより、「社会貢献性」という抽象的な概念を、「実際に困っている人が助けられている」「地域が少しずつ活性化している」といった具体的な成果として示すことができ、一部の社内関係者からの共感を得ることに成功しました。これは、短期的な収益は小さくとも、非財務的な成果によって事業の存在意義を証明する重要なステップでした。
さらに、事業のビジョンと社会課題への貢献という側面に共感する社内外の関係者を積極的に巻き込みました。CSR部門や広報部門と連携して社内報やイベントで事業を紹介したり、事業領域に関連する外部のNPOや自治体とのパートナーシップを構築したりすることで、事業の信頼性と必要性を補強しました。社内に「応援団」を作り、多角的な視点から事業の価値を語ってもらうことが、財務的な評価だけでは動かない層に響いたといいます。
また、財務部門や経営企画部門に対しては、彼らが重視する財務モデルの説明を疎かにせず、複数の収益化シナリオを提示し、それぞれの蓋然性やリスクを丁寧に説明しました。「今は投資フェーズであり、短期的な収益は限定的だが、〇〇年後にはこのような収益モデルが考えられる」「社会課題解決という側面に投資することで、企業の将来的なリスクを回避し、新たな市場を創造できる可能性がある」といった対話を粘り強く続けました。
組織に根付く「別のモノサシ」の重要性
これらの粘り強い取り組みの結果、A氏の事業は一歩ずつ前に進むことができました。すぐに組織全体の評価基準が大きく変わるわけではありませんでしたが、少なくともA氏の事業に対しては、財務指標だけでなく非財務指標も併せて評価する、という一定の理解が醸成されました。また、社内には「短期的な収益だけでなく、長期的な視点で社会に貢献する事業も必要だ」という声が少しずつですが、確実に広がり始めました。
この経験から得られた最も重要な学びは、既存の価値基準だけでは測れない新しいアイデアや事業を組織で推進するためには、その「別のモノサシ」の必要性を、具体的な成果や共感を通じて組織に理解させることが不可欠であるということです。それは、理屈だけではなく、感情や倫理に訴えかける側面も持ち合わせており、粘り強い対話と小さな成功の積み重ね、そして社内外の共感者の存在が大きな力となります。
社会が複雑化し、企業に求められる役割が変化する中で、既存のビジネスモデルや評価基準だけでは捉えきれない価値を持つ新規事業の重要性は増しています。こうした事業を組織で推進するためには、挑戦者自身が「別のモノサシ」を提示し、それを組織に根付かせるための戦略的なコミュニケーションと行動が求められるのです。