『リスクが判断できない』の声にどう向き合うか:新規事業におけるセキュリティ・コンプライアンスの壁を乗り越えた対話と推進の軌跡
新規事業開発を阻む「見えない壁」
新しい事業アイデアを組織の中で実現しようとする際、市場の機会を捉え、技術的な課題をクリアすることに加え、必ず直面する組織内部の壁が存在します。特に、デジタル技術を活用した新規サービス開発においては、セキュリティ部門やコンプライアンス部門との連携が不可欠となりますが、しばしばここで想定外の困難に直面することがあります。厳格な社内規定や複雑な承認プロセスが、新規事業に求められるスピード感を大きく阻害してしまうケースです。
今回は、大手企業内で画期的なデジタルサービスを立ち上げ、このセキュリティ・コンプライアンスの壁を乗り越えたA氏にお話を伺いました。A氏がどのように「リスクが判断できない」という専門部署の声と向き合い、事業を推進していったのか、その軌跡を探ります。
画期的なサービスアイデアと、立ち塞がった組織の壁
A氏が率いるプロジェクトチームは、市場のニーズに応える新たな顧客向けデジタルサービスの開発を進めていました。既存事業の延長ではなく、最新のクラウド技術やデータ分析を活用し、競合に先駆けてスピーディに市場投入することを目指していました。
しかし、プロジェクトが具体的なシステム設計段階に進むにつれて、大きな課題が顕在化しました。それは、社内のセキュリティおよびコンプライアンスに関する極めて厳格な規定でした。これらの規定は、主に既存のオンプレミスシステムや従来型のビジネスプロセスを前提としており、クラウド利用や機微情報の取り扱いに関する新しい要件に対しては、明確な判断基準が整備されていませんでした。
「特に困難だったのは、セキュリティ部門の方々が、我々が提案する新しい技術やデータ活用方法に対して、『前例がなく、リスクが正確に判断できないため、承認できない』という姿勢だったことです」とA氏は振り返ります。新規事業では、未知のリスクに挑む側面があり、リスクを完全に排除することは現実的ではありません。しかし、専門部署としては「リスクをゼロ」に近づけることがミッションであり、この意識のギャップが最初の大きな壁となりました。
また、リスク評価や承認のプロセスも、既存事業の変更管理プロセスを流用していたため、非常に時間を要しました。複数部署の承認が必要で、各部署が持ち帰って検討する度に時間が経過し、市場投入の遅れが現実的な懸念となったのです。
困難克服への対話と戦略
この状況に対し、A氏チームは単に規定の緩和や承認の迅速化を一方的に要求するのではなく、根本的な課題解決を目指しました。
まず、セキュリティ・コンプライアンス部門の方々との「対話の質と量」を抜本的に改善しました。プロジェクト初期の段階から積極的に情報共有を行い、新規サービスの目的、ターゲット顧客、利用する技術スタック、そしてなぜスピードが必要なのかを丁寧に説明しました。「彼らにとっては、我々の新しい取り組みが、既存システムや事業の安定性を脅かすリスク要因に見えたのかもしれません。まずは、我々が何をしようとしているのか、その『全体像』と『意図』を深く理解してもらうことが第一歩だと考えました」とA氏は語ります。
次に、「共通言語の確立」に努めました。セキュリティやコンプライアンスに関する専門用語と、ビジネスや技術開発の用語では、同じ言葉でも意味合いが異なることがあります。互いの専門性を尊重しつつ、共通の理解に基づいたリスク評価ができるよう、専門部署と協力してリスクの定義や評価基準について議論を重ねました。また、外部のセキュリティ専門家や、既に同様のクラウドサービスを導入している他社事例を調査し、客観的な情報やリスク対策のベストプラクティスを提示することで、「リスクが判断できない」状態を解消する手助けとしました。
さらに、「段階的な承認プロセス」を提案・実行しました。サービス全体の一括承認ではなく、まずは小規模なPoC(概念実証)環境での検証、特定機能のみでの限定公開、といったステップを踏み、それぞれのフェーズでリスクを再評価し、承認を得る形に変えました。これにより、専門部署は一度に全てのリスクを判断するのではなく、段階的にリスクを確認・評価できるようになり、承認プロセスの心理的ハードルと実質的な時間が大幅に短縮されました。
この過程で、A氏は「リスクは排除するものではなく、管理するもの」という考え方を粘り強く共有しました。新規事業におけるリスクは、完全にゼロにすることは不可能であり、重要なのはそのリスクを適切に評価し、許容可能なレベルに抑えるための対策を講じることである、という共通認識を専門部署との間に構築していったのです。
成果と組織への示唆
こうした地道な対話と戦略的なアプローチの結果、A氏チームは当初の計画から大きな遅延なく、新規デジタルサービスを市場に投入することに成功しました。そして、このプロジェクトを通じて得られた成果は、単なる事業成功に留まりませんでした。
セキュリティ・コンプライアンス部門との間には、単なる「承認者」と「申請者」という関係を超えた、事業を共に創り上げる協力関係が構築されました。新規技術やビジネスモデルに対する専門部署の理解が進み、その後の新しいプロジェクトにおいても、よりスムーズな連携が可能となりました。
また、このプロジェクトの経験は、社内全体のセキュリティ・コンプライアンス規定や承認プロセスの見直しにも影響を与えました。新しい技術動向や事業のスピードに対応するための柔軟な評価基準や、新規事業向けのリスクアセスメントフレームワークの検討が開始される契機となったのです。
A氏の軌跡は、組織内の「壁」が、単なる規定やプロセスの問題だけでなく、部署間の「理解不足」や「コミュニケーション不足」に起因することが多いという現実を示しています。特にリスクを扱う専門部署に対しては、一方的な要件提示ではなく、事業の背景や目的、技術の特性を丁寧に説明し、共にリスクを理解し、管理する方法を模索する「共創」の姿勢が不可欠です。
まとめ
新規事業を推進する上で、セキュリティやコンプライアンスといった専門部署との連携は避けては通れない道です。彼らの「リスクが判断できない」という声は、事業を阻害する障害として捉えられがちですが、それは組織全体のリスクを守るための彼らの責務に基づいた正当な懸念です。
この壁を乗り越えるためには、早期からの継続的な対話を通じて互いの立場を理解し、共通の言語でリスクを評価し、段階的なアプローチや代替案の提示を通じて、共に解決策を見出していく粘り強い姿勢が求められます。そして、こうした個別のプロジェクトにおける成功体験が、組織全体の文化やプロセスに変革をもたらす一歩となるのです。新しいアイデアの実現には、組織という環境の中で、様々な部署との連携を円滑に進めるための戦略的なコミュニケーションと関係構築が鍵となります。