挑戦者のアイデア軌跡

『「これで成功した」という壁』:過去の成功モデルに固執する組織で、新規事業を突破した対話と説得の軌跡

Tags: 新規事業, 組織文化, 社内調整, 成功体験, イノベーション推進

過去の成功体験が足かせとなる組織の壁

多くの組織において、過去の成功は未来への指針となり、自信の源泉となります。しかし、市場や技術が急速に変化する現代においては、その「成功体験」こそが、新しいアイデアや新規事業の推進を阻む壁となることがあります。長年培ってきた「勝ちパターン」への固執や、「これで十分」「前例がない」といった声は、変化を求める推進者にとって、乗り越えるべき大きな障壁となります。

本稿では、まさにこうした「過去の成功が築いた壁」に直面しながら、粘り強い対話と説得を通じて新規事業を実現させた挑戦者の軌跡をご紹介します。インタビューにお応えいただいたのは、伝統的な製造業において、既存事業とは全く異なるデジタルサービス事業を立ち上げた〇〇氏(仮名)です。

新規事業の背景と目的:変化する市場への適応

〇〇氏が推進した新規事業は、製品販売後の顧客体験を継続的に向上させるためのSaaS型デジタルサービスでした。当時の同社は、高品質な製品を提供し、一度販売すれば大きな売上を計上するというビジネスモデルで長年成功を収めていました。しかし、市場では製品自体のコモディティ化が進み、顧客は製品そのものだけでなく、それに付随するサービスや継続的な価値提供を重視するようになりつつありました。

〇〇氏は、この市場の変化を捉え、製品販売に加えて顧客との継続的な関係性を構築し、安定した収益源を確保するためには、デジタルサービスへのシフトが不可欠であると経営層に進言しました。その目的は、単なる収益多様化だけでなく、顧客とのエンゲージメントを深め、将来の製品開発にもフィードバックできる新しい価値創造のループを確立することにありました。

直面した「成功がゆえの」具体的な困難

しかし、この新しいアイデアは社内で大きな抵抗に遭いました。最も根深かったのは、長年の成功体験に基づく以下の壁でした。

  1. 「これで十分」という固定観念: 高品質な製品を売るという既存のビジネスモデルで十分に利益が出ており、「なぜ今さら不確実なデジタルサービスに手を出す必要があるのか」という声が多数を占めました。「製品が全てであり、サービスはあくまでおまけだ」という認識も根強くありました。
  2. 「前例がない」というリスク回避: 同社にはデジタルサービス開発やSaaSモデルの経験が皆無でした。「失敗するリスクが高い」「どうやって収益を上げるのかイメージできない」といった漠然とした不安や否定論が先行しました。過去の成功は、リスクを最小限に抑え、確実な成果を目指す文化を強化しており、不確実性の高い新規事業への挑戦を躊躇させました。
  3. 既存の評価基準との不整合: 新規事業の価値は、短期的な売上よりも、顧客継続率や利用率、LTV(顧客生涯価値)といった指標で評価されるべき性質のものでした。しかし、社内の評価システムは製品の単体売上や粗利率を重視しており、新規事業の重要性を正しく測ることができませんでした。これにより、新規事業は「既存事業を妨害する」「非効率な取り組み」と見なされがちでした。
  4. 既存部門からの反発: 特に営業部門からは、「デジタルサービス導入の手間が増える」「製品の価値を薄めるのではないか」といった懸念や反発が生じました。彼らは既存の製品販売手法で成功してきた経験があり、新しいサービスモデルへの変化に抵抗を感じていました。

これらの困難は、単にアイデアの良し悪しではなく、組織に深く根差した成功体験という「価値観」や「思考様式」に起因するものであり、論理だけでは容易に崩せない強固な壁として立ちはだかりました。

困難克服への道のり:対話と説得、そして小さな成功

〇〇氏は、これらの壁に対して、真正面からぶつかるのではなく、対話と説得を重ねるというアプローチを選択しました。

まず、〇〇氏は反対意見や懸念の背景にあるものを深く理解しようと努めました。「これで成功した」と考える人々の多くは、会社への貢献意欲が高く、過去の経験に基づく確固たる信念を持っています。その信念を頭ごなしに否定するのではなく、「なぜそう考えるのか」「何に不安を感じているのか」を丁寧にヒアリングすることから始めました。

次に、データや市場の変化を具体的な数字や事例で示すことに注力しました。競合他社の動向、顧客インタビューの結果、将来的な市場予測などをまとめた資料を作成し、説明会や個別面談を通じて共有しました。特に、既存事業が将来的に直面しうるリスク(市場縮小、価格競争激化など)をデータに基づいて示すことで、「このままではいけない」という危機感を共有できるよう努めました。

さらに重要だったのは、既存部門との協力を得るための「対話と巻き込み」です。営業部門の懸念に対しては、「デジタルサービスは製品価値を下げるものではなく、顧客満足度を高め、リピート購入やアップセルに繋がるツールである」という位置づけを根気強く説明しました。また、デジタルサービス導入によって営業担当者の手間が軽減される可能性や、新しい評価指標の導入についても共に検討することを提案しました。単に協力を「要請」するのではなく、彼らの「メリット」や「貢献」を明確に示し、新規事業が既存事業と共存し、相乗効果を生む可能性を対話を通じて模索しました。

加えて、大規模な投資承認を得る前に、まずは小さく始められるPoC(概念実証)を実施しました。特定の顧客層を対象に限定的なサービスを提供し、その効果を検証しました。ここで得られた「小さな成功体験」を社内外に発信することで、漠然とした不安を払拭し、「やってみればできるのではないか」という前向きな空気を醸成しました。このPoCは、新規事業の価値を既存の評価基準とは異なる指標(顧客エンゲージメント、利用頻度など)で示す重要な機会となりました。

成果とそこから得られた学び

これらの地道な対話と具体的な行動が実を結び、〇〇氏の推進するデジタルサービス事業は、徐々に社内の理解と協力を得られるようになりました。当初反発していた部門からも協力者が現れ始め、経営層もPoCの成功や市場の反応を見て、本格的な投資を決断しました。現在、このデジタルサービスは既存事業の柱の一つとなりつつあります。

〇〇氏がこの軌跡を通じて得た最も重要な学びは、以下の点に集約されます。

まとめ:変化を阻む内なる壁を越える

過去の成功は、組織にとって大きな資産であると同時に、変化への対応を遅らせる潜在的なリスクも孕んでいます。「これで成功した」という信念は、強固な「内なる壁」となりうるのです。

この壁を乗り越え、新しいアイデアを組織で実現させるためには、単に論理的な戦略を立てるだけでなく、組織内に根差した価値観や思考様式を深く理解し、反対意見や懸念に真摯に耳を傾ける姿勢が求められます。そして、データや小さな成功を通じて具体的に未来像を示し、関係者との粘り強い対話と説得を重ねながら、共通の目標に向かって共に歩む道を探ることが鍵となります。今回の〇〇氏の軌跡は、変化を推進する上で、最も困難でありながらも最も重要なのは、人々の意識と心に働きかけるプロセスであることを示唆しています。