『縦割り組織』がアイデアを阻む:部門間の壁を打ち破り、新規事業を推進した軌跡
縦割り組織という壁が阻むもの:新規事業推進のリアル
大手企業において新しい事業やプロジェクトを推進しようとする際、避けて通れないのが組織内の様々な壁です。特に、歴史的に部門ごとに機能が最適化され、縦割り構造が根付いた組織では、画期的なアイデアであってもその実現が困難になるケースが少なくありません。今回は、そうした「縦割り組織の壁」に正面から向き合い、新たな事業を軌道に乗せた挑戦者の軌跡を辿ります。
インタビューに応じてくださったのは、大手化学メーカーで新規事業開発を担当するA氏です。A氏が推進したのは、異分野の技術を組み合わせた新たなBtoBソリューション開発プロジェクトでした。
アイデアの背景:部門を超えた価値創造を目指して
A氏のチームが着想したソリューションは、自社の複数の既存技術(例えば、精密化学技術と材料技術)と、これまで接点の少なかった部門(例えば、情報システム部門や、特定の顧客業界を担当する営業部門)が持つ知見・データを融合することで初めて実現するものでした。目的は、既存事業の延長線上にはない、全く新しい顧客価値を創造し、新たな収益の柱を立てることでした。
「このアイデアの可能性に気づいた時、純粋にワクワクしました。しかし、同時に『これは社内で実現するのは簡単ではないだろうな』とも感じました。アイデアの核が、まさに縦割りの境界線上にあるものだったからです」とA氏は振り返ります。
直面した具体的な困難:情報サイロ、リソース不足、そして利害対立
プロジェクトを開始するにあたり、A氏のチームは早速、縦割り組織の壁に直面します。
まず大きな課題となったのが「情報サイロ」でした。新しいソリューション開発には、各技術部門が個別に蓄積してきた実験データや製造ノウハウ、情報システム部門が保有する顧客の利用データ、特定の営業部門が持つ市場の深い理解といった、社内に分散する情報資産が不可欠でした。しかし、これらの情報は各部門の管理下にあり、部門外への共有プロセスが確立されていませんでした。必要な情報にアクセスするだけでも、多くの時間と個別交渉が必要となりました。
次に、リソースの確保です。新規事業であるため、既存の予算や人員計画には含まれていません。関係各部門に協力を仰ぐ必要がありましたが、各部門はそれぞれ既存の事業目標達成に手一杯であり、新規事業への協力は「業務負荷の増加」と見なされがちでした。「なぜ、うちのリソースを新規事業のために割かなければならないのか?」という声が、遠回し、あるいは直接的に聞かれました。特に、プロジェクトに必要な高度な専門性を持つ人材は、既存事業にとって最も重要なリソースであり、そのアサインメントを得ることは至難の業でした。
さらに深刻だったのが、部門間の「利害対立」です。A氏の新規事業アイデアは、既存事業の顧客層と一部重なる可能性があり、特定の営業部門からは「既存顧客との関係を壊すのではないか」「カニバリゼーションが起きるのではないか」といった懸念が強く表明されました。また、新しい技術やシステムの導入は、情報システム部門や製造部門にとっては運用負荷の増加を意味し、保守的な意見が出やすかったといいます。多くの部門の承認や協力を得るための、複雑で時間のかかる調整プロセスが、プロジェクトのスピードを著しく鈍化させました。
「承認を得るために複数の部門を回るのですが、ある部門では『〇〇部門が良いと言うなら』と言われ、その〇〇部門に行くとまた別の条件を出される、といった『たらい回し』のような状態が続きました。各部門の懸念は理解できるのですが、全体最適で物事を考える視点が抜け落ちているように感じました」とA氏は当時の苦労を語ります。
困難克服への道のり:粘り強い対話と「見える化」戦略
こうした縦割り組織の壁を乗り越えるために、A氏とチームが取った戦略は、一言で言えば「粘り強い対話と『見える化』」でした。
まず、情報サイロに対しては、必要な情報の棚卸しと、各部門のキーパーソンとの地道な関係構築から始めました。形式ばった情報提供依頼だけでなく、個別に足を運び、プロジェクトのビジョンや、その情報がいかにプロジェクト成功に不可欠であるかを熱意を持って伝えました。同時に、プロトタイプ開発に必要な最低限の情報から始め、小さな成果を見せることで「情報提供がムダにならない」という信頼を醸成していきました。さらに、情報共有のための一元的な場(例えば、部門横断のオンラインワークスペースや定期的な合同勉強会)を設ける提案を続け、情報の流れを「見える化」する努力を重ねました。
リソース確保と利害対立に対しては、まずプロジェクトの「共通善」を明確に定義し、根気強く伝え続けました。単に新規事業の成功が目的ではなく、「会社の将来の成長」「新しい市場でのリーダーシップ確立」「既存技術の新たな可能性の開拓」といった、各部門の長期的な利益にもつながる全体目標であることを強調しました。また、トップマネジメントに対し、縦割り組織がイノベーションを阻害している現状と、このプロジェクトがそれを打破するモデルケースとなりうることを具体的に説明し、強力な後押しを取り付けました。トップの明確な指示は、部門間の優先順位調整において絶大な効果を発揮しました。
意思決定プロセスの膠着に対しては、関係する全ての部門から、プロジェクトに対する「懸念」と「協力できること」を早期に引き出すためのワークショップを実施しました。これにより、隠れた課題や抵抗の背景にある事情を表面化させ、それぞれに対する具体的な対応策をプロジェクト側から提示しました。また、意思決定プロセスそのものを見直し、承認が必要な項目と、プロジェクトチームに一任される項目を明確に区別することを関係部門と合意形成しました。これにより、些末な事項で全体の進行が止まることを防ぎました。
特に有効だったのは、「小さく始めて見せる」という戦略です。複雑な承認プロセスを経る前に、限られたリソースと情報でPoC(概念実証)を迅速に実行し、その結果を関係各部門に「成果報告会」という形で共有しました。データに基づいた具体的な成果や顧客からの肯定的な反応は、多くの懸念や抵抗を和らげる強力な説得材料となりました。
「最初は誰もが『無理だろう』と思っていたかもしれません。しかし、私たちが諦めずにコミュニケーションを取り続け、小さなステップでも具体的な進捗を見せることで、徐々に関係部門の姿勢が変わっていきました。最初は『やらされ感』のあったメンバーも、プロジェクトの可能性を感じ、自律的に協力してくれるようになったのです」とA氏は語ります。
成果とそこから得られた学び:組織を動かすのは「構造」だけでなく「人の繋がり」
結果として、A氏の新規ソリューション開発プロジェクトは、多くの壁を乗り越え、無事ローンチに成功しました。当初は懐疑的だった部門からも、徐々に協力的な姿勢が見られるようになり、社内における新規事業推進のあり方そのものに対しても一石を投じる形となりました。
この経験からA氏が得た最も重要な学びは、「組織構造は確かに大きな壁となりうるが、それを動かすのは結局のところ、人々の間の信頼関係と、共通の目的への共感である」ということでした。縦割り組織という構造的な問題に対し、構造改革だけで挑むのではなく、そこにいる「人」との向き合い方を徹底したことが、突破口を開いたのです。
また、困難な状況下でもプロジェクトを前に進めるためには、完璧な情報や承認を待つのではなく、まずは「できること」から小さく始め、結果を通じて周囲を巻き込んでいくことの重要性を痛感したといいます。
まとめ:構造の壁は、対話と行動で乗り越えられる
縦割り組織という構造的な壁は、多くの大企業でイノベーションを阻む要因となっています。情報が滞留し、リソースの融通が効かず、部門間の利害調整に膨大な時間を要することは、新しいアイデアの芽を摘んでしまいかねません。
しかし、A氏の軌跡は、こうした構造的な困難であっても、諦めずに粘り強い対話を重ね、関係者一人ひとりの立場や懸念に耳を傾け、共通のビジョンを示すことで、組織を動かすことが可能であることを示唆しています。そして、言葉だけでなく、具体的な行動と小さな成果を「見える化」し続けることが、信頼を築き、協力を得るための鍵となります。
組織の壁に直面している事業開発担当者にとって、A氏の経験は、構造的な課題を前に立ち止まるのではなく、人との繋がりを大切にし、戦略的に行動することで、道が開けるという希望を与えてくれるのではないでしょうか。