『投資対効果が見えない』新規事業:短期成果を求める組織の壁をいかに突破したか
新規事業推進における見えない壁:短期成果を求める組織の現実
新規事業開発は、未来への投資であり、組織に新たな価値をもたらす可能性を秘めています。しかし、特に既存事業が強固な大企業においては、「投資対効果(ROI)が見えにくい」「収益化まで時間がかかる」といった理由から、新規事業案が社内の壁に阻まれるケースは少なくありません。短期的な数字や確実な成果を求める組織文化は、不確実性の高い新規領域への挑戦にとって、時に大きな抵抗勢力となり得ます。
今回は、このような「投資対効果が見えにくい」という根本的な壁に直面しながらも、粘り強い対話と戦略的なアプローチでプロジェクトを推進し、組織内でその価値を認めさせた一人の挑戦者の軌跡を追います。どのようにして、短期的な成果を求める社内の目を、長期的な視点へと向けさせたのでしょうか。
長期的な顧客価値を目指した挑戦
インタビューに応じてくださったAさんは、大手メーカーの情報システム部門出身でありながら、社内で新たな顧客向けサービスの開発に取り組んでいました。彼のアイデアは、単なる製品販売に留まらず、製品を通じた顧客の体験価値を高め、長期的な関係性を構築することを目指すものでした。具体的には、製品使用データに基づいたパーソナライズされたサポート提供や、ユーザーコミュニティ形成を支援するプラットフォームの構築でした。
このアイデアが生まれた背景には、既存事業が成熟し、製品スペックだけでの差別化が難しくなっているという危機感がありました。「これからはモノを売るだけでなく、顧客との継続的な繋がりの中で生まれる『体験』こそが重要になる」とAさんは感じていました。しかし、この種のサービスは、開発コストや運用負荷はかかる一方で、直接的な売上増加やコスト削減といった短期的なROIが見えにくいという特性を持っていました。
『いつになったら儲かるんだ?』直面した壁
Aさんがこのアイデアを社内で提案し始めた当初、直面したのは予想以上の抵抗でした。最も頻繁に投げかけられたのは、「いつになったら、このサービスでいくら儲かるのか?」「具体的な売上計画はどうなっているんだ?」という問いでした。
- 既存事業の評価軸とのズレ: 既存事業が確立している組織では、全ての活動が売上や利益、コスト削減といった既存の明確な評価軸で測られがちです。Aさんの提案は、顧客エンゲージメント向上やブランド価値向上といった、定性的な、あるいは非常に長期的な視点での効果を主眼としていたため、既存の評価基準に当てはめることが難しかったのです。
- リソース配分への疑問: 既存事業部門からは、「なぜ、売上に直結しない、成果が見えないプロジェクトに、貴重な人員や予算を割く必要があるのか?」という声が上がりました。特に、短期的な目標達成に追われる部門にとっては、Aさんのプロジェクトは非効率に見えたようです。
- 失敗への恐れ: 新しい領域への挑戦は、常に失敗のリスクを伴います。過去に新規事業で苦い経験を持つ組織にとっては、「また失敗するのではないか?」という潜在的な恐れが、プロジェクト承認へのハードルをさらに高めていました。
- 説明責任の重さ: ROIが見えにくいプロジェクトであるため、経営層や関係部門への説明責任が非常に重くのしかかりました。「やります」と言うだけでは許されず、なぜやるのか、何を目指すのか、そしてそれが将来的に組織にどのような利益をもたらす可能性があるのかを、納得いくまで説明し続ける必要がありました。
Aさんは、「データや論理で説明しようとしても、『じゃあ、数字は?』と返されてしまう。まさに『話が通じない』と感じる瞬間でした」と当時を振り返ります。
代替評価軸と粘り強い対話で切り拓く
このような困難に対し、Aさんは諦めることなく、いくつかの戦略と具体的な行動を積み重ねていきました。
まず重要だったのは、ROI以外の代替評価軸を明確に設定し、提示することでした。単に「顧客満足度が向上する」といった曖昧な表現ではなく、「このサービス導入により、顧客の解約率が〇〇%改善する可能性がある」「ユーザーコミュニティにおけるアクティブ率が〇〇%に達すれば、口コミによる新規顧客獲得に繋がる可能性がある」といったように、具体的な指標(KPI)を設定し、その指標の重要性を説明しました。短期的な財務効果ではなく、顧客との長期的な関係性資産を築くための「投資」であるというメッセージを粘り強く伝えました。
次に、スモールスタートで具体的な成果を示すことを徹底しました。最初から大規模なシステム開発を目指すのではなく、まずは一部の顧客を対象に、手作業も交えながら限定的なサービス提供を行い、その反応や効果を測定しました。顧客からの肯定的なフィードバックや、エンゲージメントの変化を示すデータ(例: サービス利用回数、滞在時間、問い合わせ内容の変化など)を収集し、「数字には表れにくいが、確かな価値が生まれている」という事実を関係者に示しました。これにより、「やってみなければ分からない不確実なもの」から「小さくとも、現実に効果が出始めているもの」へと認識を変えることができました。
さらに、関係者を巻き込むための丁寧なコミュニケーションに時間をかけました。反対意見を持つ部門や個人に対して、一方的に説得しようとするのではなく、彼らの懸念や立場を丁寧に聞き取り、なぜその懸念が生まれるのかを理解しようと努めました。「売上に繋がらない」という意見に対しては、「短期的な売上貢献は限定的だが、長期的な顧客ロイヤルティ向上は、将来の安定した収益基盤構築に不可欠である」といったように、相手の論理を否定せず、より上位の戦略的な視点からプロジェクトの意義を説明しました。また、プロジェクトの進捗状況や得られた学びを定期的に共有し、透明性を保つことで、不信感を払拭し、徐々に理解と協力を得るように努めました。
特に有効だったのは、「ストーリー」で語ることでした。単なるデータや計画だけでなく、サービスによって顧客体験がどのように豊かになるのか、あるいは製品がもたらす価値がどのように変化するのかを、具体的な顧客像を想定したストーリーとして語ることで、関係者の共感を引き出し、プロジェクトへの感情的な繋がりを生み出しました。
学び:評価軸への問い直しと「信頼資本」の構築
Aさんのプロジェクトは、数年にわたる粘り強い活動の結果、徐々に社内での認知と理解を深め、最終的には正式な事業として立ち上がることができました。この経験から得られた最も重要な学びは、以下の点に集約されます。
まず、組織の既存評価軸そのものに問いを投げかけ、代替案を提示する勇気の重要性です。新規事業は往々にして既存の枠組みには収まりません。短期的なROIが見えない場合でも、その事業がもたらす本質的な価値を定義し、それを測るための新たな指標を提案し、その意義を説得する力が求められます。
次に、「信頼資本」の構築です。数値的な根拠が少ない初期段階においては、推進者自身の情熱、誠実さ、そして「この人なら任せられる」という関係者からの信頼が、プロジェクトを前進させる上で極めて重要な要素となります。丁寧なコミュニケーション、約束の実行、そして困難な状況でも諦めない姿勢が、この信頼を築き上げます。
最後に、小さく始めて成果を示すことの説得力です。未知の領域への挑戦は、理論武装だけでは足りません。実際に手を動かし、小さな成功事例を作り出すことで、不確実性を減らし、関係者に「これなら可能性があるかもしれない」と感じさせることができます。
まとめ
「投資対効果が見えない」という壁は、多くの大企業で新規事業開発の前に立ちはだかる現実的な課題です。しかし、その壁は決して破れないものではありません。 Aさんの軌跡は、短期的な成果を求める組織文化の中でも、長期的な視点から事業の意義を定義し、代替となる評価軸を提案し、粘り強い対話と具体的な小さな成果の積み重ねを通じて、周囲の理解と協力を勝ち取っていくことの重要性を示しています。
新しい価値創造を目指す挑戦者にとって、既存の評価基準や組織文化は乗り越えるべき大きな壁となり得ます。しかし、その困難と誠実に向き合い、異なる視点を提供し続けることで、組織全体を未来に向けた一歩へと導くことができるのです。