『「良い製品のはずなのに売れない」の壁』:顧客体験価値を組織に浸透させ、新規事業を成功させた軌跡
プロダクトアウト文化がもたらす「良い製品なのに売れない」の壁
新しいアイデアや技術は生まれた。しかし、それを素晴らしい「製品」として世に送り出しても、なぜか市場で響かない。ターゲット顧客にリーチしない。期待したほど売れない。大手企業において、この「良い製品のはずなのに売れない」という壁に直面することは少なくありません。多くの場合、その根底には、長年培われてきたプロダクトアウト志向や効率優先の組織文化が潜んでいます。顧客の声に耳を傾けず、市場の変化を捉え損ね、結果として顧客が真に求める「体験」を提供できていないのです。
今回は、こうした組織文化の壁に立ち向かい、顧客体験価値を重視するアプローチで新規事業を成功に導いた挑戦者の軌跡をたどります。どのようにして組織内の抵抗を乗り越え、顧客中心の考え方を浸透させ、新しいサービスを実現させたのでしょうか。
変化への危機感から生まれた「顧客体験」への着眼
この挑戦者が所属する企業もまた、長年の技術開発力と高品質な製品製造で成長を遂げてきました。しかし、市場が成熟し、競合も増加する中で、従来の「良いものを作れば売れる」という方程式が通用しなくなりつつありました。製品単体の性能だけでは差別化が難しくなり、顧客は製品そのものだけでなく、利用するプロセス全体、すなわち「顧客体験」を重視するようになっていたのです。
こうした状況に対し、新規事業開発部門にいた彼は強い危機感を抱きました。「このままでは、どれだけ高性能な製品を作っても、顧客に選ばれなくなる。顧客が抱える本当の課題を理解し、その解決策としてのサービスをデザインする必要がある」と考えたのです。目指したのは、製品起点の開発から、顧客のニーズや行動様式を深く理解し、そこからサービス全体を設計する「顧客体験中心」のアプローチへの転換でした。これは、従来の技術開発部門や製造部門が中心となっていたプロセスを根本から見直すことを意味していました。
立ちはだかった組織文化と既存指標の壁
しかし、この新しいアプローチを組織に持ち込むことは容易ではありませんでした。まず直面したのは、根強く浸透したプロダクトアウトの文化です。
「我々は技術で勝負してきた会社だ。顧客はスペックを見る」「顧客の声を聞きすぎると、製品コンセプトがぶれる」「机上の空論だ。まずは作ってみなければ分からない」――こうした声が社内のあちこちから聞かれました。特に、技術部門や製造部門には、自社の技術や製品への強い自負があるゆえに、顧客起点で考えることへの抵抗感が強くありました。
また、既存の評価指標も大きな壁となりました。組織全体の評価は、売上高、利益率、製造コスト削減率といった、主に内部効率や短期的な財務成果を重視する指標が中心でした。顧客満足度やエンゲージメント、サービス利用率といった顧客体験に関する指標は二次的であるか、あるいは全く評価対象となっていませんでした。
「顧客体験なんて曖昧なものをどう評価するんだ」「それで本当に売上につながるのか?投資対効果が見えない」――事業開発に必要な予算を獲得しようにも、このような疑問が投げかけられ、合理的な投資と見なされにくい状況がありました。さらに、企画、開発、営業、サポートといった部門が縦割りになっており、顧客が製品やサービスと接する一連の流れを、部門横断で捉え、改善しようとする意識も希薄でした。顧客体験を重視する彼のアプローチは、既存の組織構造やプロセス、評価システム全てに変革を迫るものだったため、多くの抵抗勢力を生み出したのです。
小さな成功と「共通言語」が突破口に
こうした多層的な壁に対し、彼は正面衝突を避け、粘り強く突破口を探る戦略を取りました。
まず取り組んだのは、「なぜ顧客体験が重要なのか」という共通認識の醸成でした。彼は外部の成功事例や、データに基づいた市場のトレンドを地道に収集・分析し、社内セミナーや勉強会を企画・開催しました。最初は少人数から始めましたが、次第に技術部門や営業部門の有志も参加するようになりました。
次に重要視したのは、「顧客の声」を組織内の「共通言語」にすることでした。彼はユーザーリサーチや顧客インタビュー、カスタマージャーニーマップ作成といった手法を導入しましたが、それを自分たち新規事業開発部門だけで行うのではなく、関連部門のメンバーに積極的に参加を促しました。実際に顧客が製品の使い方に困っている様子を目の当たりにしたり、サービスに対する生の声を聞いたりすることで、多くの社員が「良い製品だけでは不十分だ」ということを肌で感じ始めたのです。最初は仕方なく参加していたメンバーも、顧客の課題が自社製品やサービスの改善点に直結していることに気づき、徐々に前向きになりました。
さらに、彼は大きな新規事業を一気に進めるのではなく、まずは既存事業の一部や、比較的リスクの低い領域で「顧客体験重視」のアプローチを試行するパイロットプロジェクトを立ち上げました。そして、その小さなプロジェクトで得られた顧客からの肯定的なフィードバックや、サービスの利用データといった「目に見える成果」を丁寧に収集し、社内に共有しました。データという客観的な事実を示すことで、「顧客体験なんて曖昧だ」「投資対効果が見えない」といった懐疑的な意見に対しても、具体的に反論できるようになりました。
また、評価指標の壁に対しては、経営層や関係部門に対し、顧客満足度やNPS(ネットプロモーター・スコア)といった指標が、中長期的なLTV(顧客生涯価値)やブランド価値向上にどのように貢献するかを、先行事例や理論を引用しながら根気強く説明しました。すぐに既存の評価システムが全て変わったわけではありませんが、少なくとも新規事業においては、これらの顧客体験指標も重要な評価項目として議論される土壌が生まれました。
部門間の壁に対しては、サービスデザインのワークショップなどを通じて、企画、開発、営業、サポートの担当者が一同に会し、共通の顧客像や顧客体験を描く機会を意図的に増やしました。異なる視点から顧客体験を議論することで、部門間の連携の必要性に対する理解が深まりました。
文化変革の萌芽と普遍的な学び
彼の粘り強い取り組みの結果、彼が推進する新規事業は、従来の製品とは異なる形で顧客に受け入れられ、順調に成長軌道に乗りました。単に製品を販売するだけでなく、顧客の利用プロセス全体をサポートするサービスとして認知されるようになったのです。
何より大きな変化は、組織文化の中に「顧客体験」という視点が根付き始めたことです。全ての部署で即座に顧客体験中心になったわけではありませんが、少なくとも彼の関わったプロジェクトや、その影響を受けた部署では、企画段階から顧客の声を聞き、カスタマージャーニーを検討することが当たり前になりました。部門間の連携も、顧客体験をより良くするという共通目標のもとで、円滑に進むケースが増えました。
この軌跡から得られる学びは多岐にわたります。まず、大手企業で顧客体験を重視する新規事業を進めることは、単に新しい手法を導入するだけでなく、長年の組織文化や評価システム、部門間の壁といった構造的な課題に挑む「文化変革」の側面が強いということです。
そして、その変革を実現するためには、正面から抵抗勢力と戦うのではなく、共通認識を作るための地道な啓蒙活動、顧客の声を「共通言語」とするための関係者巻き込み、そして小さな成功体験を積み重ねてデータで示すことが極めて有効であるということです。特に、顧客の声を聞くプロセスに様々な部門のメンバーを巻き込むことは、理屈ではなく体感として顧客理解の重要性を認識させる上で強力な手段となります。
最後に、評価されない新しい価値(顧客体験価値)を組織に認めさせるためには、既存の評価軸と対立するのではなく、長期的な視点での貢献度や、データに基づいた説明を粘り強く続けることが不可欠です。一朝一夕には変わらなくても、対話を続けることで理解者は必ず増えていきます。
「良い製品のはずなのに売れない」という壁に直面したとき、それは組織が顧客から少し離れてしまっているサインかもしれません。顧客体験に真摯に向き合い、組織の壁を乗り越える挑戦は、事業の成功だけでなく、組織自体の進化にもつながっていくのです。