『グレーゾーンだから』をどう評価するか:不確実な法規制環境下で新規事業を推進したリスク評価と意思決定の軌跡
「挑戦者のアイデア軌跡」、今回のインタビューは、急速に変化する技術と社会環境の中で、既存の法規制や社内コンプライアンス基準では明確な判断が難しい、いわゆる「グレーゾーン」に踏み込み、新たな事業を立ち上げた挑戦者の軌跡です。大手企業の事業開発担当者として、不確実な環境下での意思決定や、リスクを慎重に見極める組織文化の中で新規性を追求することの難しさに直面されている方も多いかと思います。今回のストーリーが、皆様の課題解決やプロジェクト推進の一助となれば幸いです。
アイデア/プロジェクトの背景と目的:変化の波と「やらなければならない」という危機感
インタビューに応じたのは、化学・素材メーカーであるA社で新規事業開発部門を率いるB氏です。彼が担当したのは、環境負荷低減に貢献する新たな素材を開発し、これを用いたサービスを展開するというプロジェクトでした。この素材自体は既存の延長線上にあるものでしたが、そのサプライチェーン全体の管理や、利用済み製品の回収・再利用といった新たなスキームを構築する点で、従来の事業モデルとは一線を画していました。
「地球環境に対する意識の高まりは明らかでした。既存の素材ビジネスだけでは、将来的に市場の変化に対応できなくなると感じていました。新しい素材を通じて、製品を提供するだけでなく、そのライフサイクル全体に関与することで、お客様との関係性を深め、新たな収益源を確立する必要があったのです」とB氏は語ります。
しかし、この「回収・再利用」という部分は、当時の法規制や業界慣習において、明確なルールや前例が少ない領域でした。まさに「グレーゾーン」への挑戦でした。
直面した具体的な困難と課題:「コンプライアンス的に問題ないか?」という壁
プロジェクトの推進において、B氏が最も強く感じた壁は、社内外の「コンプライアンス的に問題ないか?」という問いかけでした。
「まず、社内の法務・コンプライアンス部門からの懸念が大きかったです。新しいスキームに対して『既存の法律に抵触する可能性はないか?』『将来的に規制が強化された場合にどう対応するのか?』といった点が厳しく問われました。明確な前例がないため、『絶対に大丈夫です』とは言い切れません。この『言い切れない』ことが、社内では大きなリスクと見なされる傾向にありました」
また、このスキームには複数の業界にまたがるパートナーとの連携が不可欠でしたが、パートナー企業も同様に、新しい取り組みに伴う法的なリスクや、業界団体からの反発を懸念していました。
「特に、回収・再利用のスキームに関わる企業の中には、廃棄物処理に関する既存の許認可や慣習に縛られており、新しい取り組みへの理解や協力が得られにくい側面がありました。それぞれの企業のコンプライアンス基準やリスク許容度が異なり、足並みを揃えることが非常に困難でした」
さらに、この種のプロジェクトは、成果がすぐに見えにくく、法規制の動向という外部要因に左右されるリスクが高いと見なされ、社内リソースの獲得や予算確保においても苦労が伴ったといいます。「投資対効果が見えにくい、時期尚早ではないか、という声もありました」。
困難克服への道のり:対話と「リスクの解像度」を高める戦略
これらの「コンプライアンスの壁」や「不確実性への懸念」を乗り越えるため、B氏はいくつかの戦略を実行しました。
「最も重要だったのは、関係部署との早期かつ継続的な対話です。特に法務・コンプライアンス部門とは、プロジェクトの初期段階から密に連携しました。彼らを『チェックする側』ではなく、『一緒にリスクを評価し、乗り越えるためのパートナー』と位置づけたのです」
具体的には、アイデアの漠然とした段階から懸念点を洗い出し、想定されるリスクシナリオを共に検討しました。リスクが顕在化する可能性はどの程度か、もし顕在化した場合の影響はどの程度か、といった「リスクの解像度」を高める作業を徹底したといいます。
「『グレーゾーンだから危ない』で終わらせるのではなく、『この部分は規制が不明確だが、過去の判例や他国の事例から類推するとこう解釈できる』とか、『もし規制が強化された場合は、こういった代替策が考えられる』といった具体的な根拠や対応策をセットで議論しました。これにより、単なる懸念だったものが、管理可能なリスクとして認識されるようになったのです」
また、外部の法律事務所や業界専門家との連携も積極的に行いました。中立的な立場からの専門家の意見は、社内の説得材料として非常に有効だったといいます。
経営層に対しては、単にリスクの説明に終始するのではなく、なぜ今このリスクを取る必要があるのか、この事業がもたらす将来的な機会、そして最悪のシナリオでも事業継続が可能であることの根拠を、データに基づき丁寧に説明しました。「短期的なリスクと、長期的な機会損失のバランスを理解してもらうことに注力しました」
パートナー企業に対しても、一方的に協力を求めるのではなく、彼らが懸念するリスクを一緒に評価し、リスクを軽減するための仕組みを共同で構築することを提案しました。「例えば、法的な不確実性に対しては、特定の条件が満たされた場合に契約を見直す条項を設けたり、共同で外部専門家に相談する機会を設けたりしました」
成果とそこから得られた学び:組織に根付いた「リスクと向き合う姿勢」
これらの地道な取り組みの結果、プロジェクトは少しずつ前進し始めました。法務・コンプライアンス部門との間には信頼関係が構築され、単なる審査ではなく、事業を前に進めるための建設的な議論ができるようになりました。パートナー企業との間でも、共通のリスク認識と協力体制が生まれました。
「このプロジェクトを通じて得られた最大の成果は、特定の事業が軌道に乗ったこと以上に、組織内に『不確実な状況下でも、リスクを適切に評価し、対話し、前に進む』という姿勢が根付いてきたことだと感じています」とB氏は語ります。
そこから得られた学びとして、B氏は以下の点を挙げました。
- 法務・コンプライアンス部門は「壁」ではなく「パートナー」: 早期から巻き込み、共通の目標(事業の成功とリスクの最小化)に向かって共に考える姿勢が不可欠。
- 「リスクの解像度」を上げる: 漠然とした懸念を具体的なシナリオと可能性・影響度に分解することで、管理可能なものとして認識できる。
- 対話と言語化の重要性: 異なる部門間、社内外の関係者間で、リスクや機会、判断の根拠を明確に言語化し、丁寧にすり合わせるプロセスが、信頼構築と合意形成の鍵となる。
- 外部知見の戦略的活用: 客観的な専門家の意見は、社内の議論を建設的に進める上で強力なツールとなる。
- 機会損失リスクにも目を向ける: リスク回避のみに注力するのではなく、挑戦しないことによる将来的な機会損失のリスクも示唆することで、組織の意思決定を促すことができる。
まとめ:不確実性の中での航海術
B氏の軌跡は、特に大企業において新規事業が直面しがちな「法規制やコンプライアンス、そしてそれに伴うリスクを過度に恐れる組織文化」という壁を、真正面からの対話と「リスクの解像度を上げる」戦略によって乗り越えた事例と言えます。
不確実な未来において新しい価値を生み出すためには、「グレーゾーンだから立ち止まる」のではなく、リスクを分析し、関係者と共有し、乗り越えるための戦略を共に考え抜く粘り強いプロセスが不可欠です。社内外の専門家をパートナーとして巻き込み、丁寧な対話を通じて共通理解を深めること。そして、リスク評価の結果を具体的な言葉で経営層や関係者に伝えること。これらのアプローチは、皆様が自社の組織で新たな挑戦を進める上での重要なヒントとなるのではないでしょうか。