『自社を食い潰すのか』の声にどう向き合うか:カニバリゼーション懸念を乗り越え、デジタルシフト事業を実現した軌跡
既存事業との衝突を恐れず、未来への一歩を踏み出す
大手企業において、既存の収益の柱となっている事業が強固であればあるほど、それを脅かしかねない新規事業には強い抵抗が伴います。特にデジタルシフトのような変化は、従来のビジネスモデルを根底から覆す可能性があり、「カニバリゼーション(共食い)」への懸念は、事業推進における最も大きな壁の一つとなり得ます。
今回ご紹介するのは、まさにこの「自社を食い潰すのか」という社内からの強い声に直面しながらも、粘り強い対話と戦略的なアプローチでデジタルシフト事業を実現に導いた、ある事業開発担当者の軌跡です。彼はいかにしてこの困難な壁を乗り越え、組織を未来へと向かわせたのでしょうか。
デジタルシフトの必要性と、立ち込めるカニバリゼーションの影
このプロジェクトが始まった背景には、市場のデジタル化という避けられない潮流がありました。従来のビジネスモデルは依然として収益を上げていましたが、顧客行動の変化や新しい競合の台頭により、将来的な成長の鈍化、あるいは縮小が予測されていました。このままでは会社の未来が危うくなるという危機感から、デジタル技術を活用した新たなサービスを開発し、新しい顧客層を獲得すると同時に、既存事業の将来的な進化に繋げるという目的が設定されました。
しかし、このアイデアが社内で提案されたとき、最も強く、そして最も感情的な反応として返ってきたのが、「カニバリゼーション懸念」でした。特に既存事業を担う部門からは、「なぜ今、うまくいっている事業を自らの手で破壊しようとするのか」「新しいサービスが出れば、既存顧客はそちらに移ってしまい、我々の売上が減るのではないか」「そうなった場合の評価はどうなるのか」といった声が上がり、強い抵抗勢力となりました。彼らにとって、目の前の収益目標の達成が最優先であり、不確実な未来への投資よりも既存の安定を維持することの方が重要だったのです。また、新しいサービスが既存事業のチャネルやリソースを奪うのではないかという懸念も存在しました。
懸念との対話:感情と論理の間の軌跡
カニバリゼーション懸念は、単なる論理的なリスク評価だけでなく、既存事業に携わる人々のプライドや不安、そして過去の成功体験に基づいた感情的な側面が強く影響していました。この壁を乗り越えるために、彼は以下の具体的なステップとアプローチを取りました。
まず、彼は「カニバリゼーションは避けられないリスクではなく、むしろ管理し、乗り越えるべき変化である」という認識を持つことの重要性を説きました。市場の変化が避けられない以上、自らが変化を起こさなければ、いずれ外部からの変化(新しい競合など)によって既存事業が「食い潰される」というシナリオの方が、より現実的でリスクが高いことを、具体的な市場データや競合事例を示しながら繰り返し説明しました。
次に、カニバリゼーションを「脅威」としてのみ捉えるのではなく、「進化の機会」として位置づけるための対話を重ねました。新しいデジタルサービスは、既存顧客に新たな選択肢を提供し、顧客満足度を高める可能性があること、また、これまでアプローチできなかった新しい顧客層を取り込むことで、市場全体のパイを広げることができる点を強調しました。さらに、将来的には既存事業とデジタルサービスが連携し、互いを補完し合うことで、より強固なビジネスモデルを構築できる可能性を示唆しました。
特に注力したのは、既存事業部門との丁寧なコミュニケーションです。一方的な説明ではなく、彼らの懸念や不安を徹底的に聞き出すことから始めました。「売上が減ったらどうなるのか」「評価はどうなるのか」といった具体的な問いに対して、経営層とも連携しながら、過渡期の評価方法の見直しや、デジタルサービスへの貢献度を評価に組み込む可能性など、具体的な対応策を一緒に検討する姿勢を示しました。個別のヒアリングや少人数のワークショップを繰り返し開催し、感情的なしこりを丁寧に解消していくプロセスを重視しました。
また、最初から全社的な導入を目指すのではなく、特定の一部門や地域でのパイロットプロジェクトとしてスタートさせる戦略を取りました。これにより、リスクを限定しつつ、実際のデータに基づいてカニバリゼーションの影響度や、新しいサービスの有効性を検証できる機会を設けました。この成功事例を示すことが、他の部門の理解を得る上で非常に効果的でした。
経営層に対しても、短期的なカニバリゼーションによる既存事業への影響を正直に伝えつつ、それを上回る中長期的な視点での市場拡大、競合優位性の確保、そして企業全体の持続的な成長に不可欠であることを、データに基づいたシミュレーションや、外部環境分析を交えながら粘り強く説得しました。
成果と、未来への示唆
これらの粘り強い対話と戦略的なアプローチの結果、当初は強硬な抵抗を示していた既存事業部門からも、徐々に理解と協力が得られるようになり、デジタルシフト事業は社内承認を獲得し、無事ローンチに至りました。パイロットプロジェクトでの良好な成果が示されるにつれて、全社的な展開への道も開けていきました。カニバリゼーションの影響が全くなかったわけではありませんが、事前に懸念を共有し、対策を講じていたことで、その影響は最小限に抑えられ、新しいサービスの売上と市場拡大効果が既存事業の減少分を上回る結果となり始めています。
この経験から得られた最も重要な学びは、カニバリゼーションは新規事業につきものだが、それは乗り越えられない壁ではなく、むしろ組織全体で未来のあり方を議論し、変化への適応力を高めるための貴重な機会だということです。抵抗勢力は必ずしも悪意があるわけではなく、多くは変化への不安や既存の成功にしがみつきたいという人間の自然な感情に基づいています。それらの感情に寄り添い、共感を示しつつも、論理的に未来の必要性を示し、具体的な解決策を一緒に模索する「対話の質」こそが、最も重要な推進力となります。
まとめ
新しいアイデア、特に既存の収益構造に影響を与えうるものは、社内で強い抵抗に遭う可能性が高いでしょう。「自社を食い潰すのではないか」という懸念は、多くの組織が直面する現実的な壁です。しかし、この軌跡が示すように、感情的な懸念にも真摯に耳を傾け、論理的なデータと未来への明確なビジョンを示し、関係者との継続的な対話を重ねることで、困難を乗り越え、組織を新たな成長へと導くことは可能です。必要なのは、変化を恐れず、正面から課題に向き合う勇気と、関係者を巻き込むための粘り強いコミュニケーション能力、そして何よりも組織の未来を信じる強い意志なのかもしれません。