挑戦者のアイデア軌跡

部門間の「言葉の壁」と目的意識の違い:サイロ化組織で新規事業を推進した対話と調整の軌跡

Tags: 部門間連携, 組織横断, 新規事業, 社内調整, コミュニケーション

はじめに:組織内の「見えない壁」

大手企業において、新しい事業やサービスを生み出すプロセスは、多くのステークホルダーと部門を巻き込む複雑な道のりです。特に、専門性が高度化し、組織が細分化されるにつれて、部門間の「サイロ化」は避けられない課題となります。それぞれの部門は独自の文化、優先順位、そして「言葉」を持っています。これらの違いが、新規事業推進における見えない壁となり、アイデアの実現を阻むことがあります。

今回お話を伺ったのは、長年素材メーカーの研究開発部門に在籍し、その後全社横断の新規事業開発プロジェクトを牽引されたAさんです。彼は、画期的な新素材の技術シーズを、市場に受け入れられる製品・サービスとして具現化する過程で、研究開発、製造、営業といった専門性の異なる部門間の深い溝に直面したと言います。本稿では、Aさんがどのようにしてこの部門間の「言葉の壁」や「目的意識の違い」を乗り越え、プロジェクトを推進していったのか、その挑戦の軌跡を紐解きます。

アイデアの背景と目的:技術シーズを社会価値へ

Aさんがプロジェクトに関わるきっかけとなったのは、彼自身が研究開発部門で生み出した、特定の機能を持つ新素材でした。この素材は、従来の技術では実現困難だった課題を解決する可能性を秘めており、特にBtoB領域での応用が期待されていました。

しかし、研究開発で生まれた技術シーズが、そのまま事業として花開くことは稀です。市場のニーズとの整合性、製造可能性、販売チャネルの確保、そして収益性といった、事業化に必要な要素は研究開発部門だけでは完結できません。Aさんは、この技術を単なる「面白い研究成果」で終わらせず、社会に価値を提供する「事業」として成立させることを目指しました。そのためには、素材技術に精通した研究開発部門はもちろん、量産化技術を持つ製造部門、顧客の課題と市場の動向を把握する営業部門、そして事業全体の戦略や採算性を評価する企画・経理部門など、多様な専門性を持つ部門との密接な連携が不可欠でした。

直面した具体的な困難:専門性の違いがもたらす壁

プロジェクトが始動し、Aさんが中心となって各部門との連携を図り始めると、想像以上の「壁」に直面しました。

第一に、「言葉の壁」です。研究開発部門は物理的な特性や化学構造を詳細な専門用語で語りますが、営業部門は顧客が理解できる言葉、つまり「どのような課題を解決できるか」「競合製品と比べて何が優れているか」といったベネフィットを求めます。製造部門は、生産ラインの制約やコスト、歩留まりの話が中心です。「研究室レベルではOKでも、量産は無理」「なぜそんなに高いのか」といった意見が出ました。それぞれの部門が使う言葉や重視する指標が異なるため、共通理解を得るのに時間がかかり、議論が噛み合わないことが頻繁に発生しました。

第二に、「目的意識の違い」です。研究開発部門は技術の「新規性」や「性能の最大化」を追求しがちですが、製造部門は「安定供給」と「コスト削減」、営業部門は「売上の最大化」と「顧客満足度」を最優先します。新規事業の成功という共通目標はあったものの、それぞれの部門が持つ日々のミッションやKPIに引っ張られ、プロジェクトへの貢献の優先順位が低くなることもありました。特に、既存事業が安定している部門ほど、不確実性の高い新規事業へのリソース投入や、従来のやり方を変えることへの抵抗が強かったと言います。

第三に、「情報共有の壁」です。各部門が持つ重要な情報(例:顧客からのリアルな要望、製造における予期せぬ課題、競合の動き)が、タイムリーかつ正確に他の部門に伝わらないことがありました。情報がサイロ化することで、手戻りが発生したり、非効率な意思決定が行われたりしました。

困難克服への道のり:対話と調整の粘り強いプロセス

これらの困難に対し、Aさんは正面から向き合い、以下のような具体的なアクションを取りました。

まず、最も重要だと考えたのは、「相手を知る」ことでした。各部門の主要なメンバー一人ひとりと丁寧に対話する時間を持ちました。「あなたの部門のミッションは何ですか?」「日々の業務で最も苦労していることは何ですか?」「この新規事業に対して、率直にどう思われますか?」といった問いかけを通じて、それぞれの立場、専門性、価値観、そして懸念を深く理解することに努めました。この初期の段階で、各部門が抱える「本当の関心事」や「譲れないポイント」を把握できたことが、その後の調整に大きく役立ったと言います。

次に、共通理解を醸成するための「翻訳」と「共通言語化」を意識しました。研究開発の技術内容を、営業担当者向けには顧客メリットに、製造担当者向けには生産プロセスのイメージに「翻訳」して説明しました。逆に、営業からの市場情報は、研究開発や製造担当者が技術的課題として認識できるよう具体化しました。さらに、プロジェクト専用の合同ワークショップを定期的に開催し、技術、製造、市場、顧客といった異なる視点から、一つのテーマについて全員で議論する場を設けました。ここでは、あえて専門用語を避け、誰にでもわかる平易な言葉で議論することを徹底しました。これにより、部門を超えた「共通言語」が少しずつ形成されていきました。

また、プロジェクト全体の「共通目標」と、それに対する各部門の「貢献の可視化」に力を入れました。プロジェクトの最終的な成功イメージを具体的に描き、それに向けて各部門が果たすべき役割と目標(KPI)を明確に設定しました。単に目標を定めるだけでなく、それぞれの部門がプロジェクトの進捗にどのように貢献しているかを定期的に共有し、小さな成功であっても全体に発信する機会を設けました。これにより、「自分たちの仕事がプロジェクト全体の成功に繋がっている」という実感を持ってもらい、当事者意識を高めることができました。

経営層への働きかけも不可欠でした。部門間の壁が高い場合、部門長の理解と協力が鍵となります。Aさんは、プロジェクトの意義や部門間連携の重要性について、部門長レベルへの丁寧な説明を繰り返し行いました。必要に応じて、経営会議などでプロジェクトの現状と課題(部門間の連携課題を含む)を率直に報告し、経営層からのサポートを取り付けました。経営層からの「このプロジェクトは全社にとって重要であり、部門横断での協力が必要である」というメッセージは、各部門がプロジェクトを優先する上で大きな力となりました。

これらのプロセスは、決してスムーズではありませんでした。意見の対立や、期待通りに進まないことも多々ありました。それでもAさんは、諦めずに粘り強く対話を続け、それぞれの部門の立場を尊重しながら、プロジェクト全体の最適解を探る努力を続けました。重要な局面では、感情的にならず、データや論理に基づいて冷静に説明し、根拠を示すことを心がけたと言います。

成果とそこから得られた学び:組織を変えるのは「人」

Aさんの粘り強い対話と調整の結果、プロジェクトは徐々に前進しました。当初は相互理解が乏しかった部門間でも、共通言語でのコミュニケーションが生まれ、協力体制が築かれていきました。研究開発の知見が製造プロセスに活かされたり、営業からのリアルな顧客の声が技術開発の方向性に反映されたりするなど、部門連携による相乗効果が現れ始めました。結果として、技術シーズは市場ニーズを捉えた製品へと具体化し、試作品開発を経て、現在は本格的な事業化に向けた最終段階に進んでいます。

この挑戦を通じて、Aさんが最も強く感じた学びは、「組織を変えるのは、結局のところ『人』であり、その間の『対話』と『関係性』である」ということです。どんなに優れたアイデアや戦略があっても、それを実行するのは組織に属する一人ひとりの人間です。部門間の壁は、組織構造そのもの以上に、個人の意識や部門間の相互理解不足から生じることが多いのです。

壁を乗り越えるためには、まず相手の立場を理解しようと努めること。そして、異なる専門性を持つ人々が、対等な立場で共通の目標に向かって率直に話し合える「場」と「仕組み」を作ること。さらに、そのプロセスを粘り強く続ける「推進者」の存在が不可欠です。それは、高度な交渉術や権限だけでなく、相手への敬意と、共通の成功を信じる強い意志によって支えられるものです。

まとめ:挑戦への示唆

新しい事業やイノベーションの推進は、常に組織内の様々な壁に直面します。特に、専門性の異なる部門間の連携は、多くの大手企業にとって共通の、しかし困難な課題です。今回のAさんの軌跡は、技術的な課題解決能力だけでなく、多様な人々と向き合い、対話し、調整していく人間的なスキルが、組織という環境下での新規事業推進においていかに重要であるかを示唆しています。

もしあなたが、組織内の「言葉の壁」や「目的意識の違い」に阻まれ、アイデアの推進に苦労しているならば、まずは関係する部門の人々の「声」に耳を傾けることから始めてみてはいかがでしょうか。相手の立場を理解し、共通言語を探し、共に目指す未来を具体的に描くこと。地道で時間のかかるプロセスかもしれませんが、組織内の壁を解きほぐし、イノベーションを加速させるための確かな一歩となるはずです。