『安定志向』の壁:既存事業の延長線上にない新規事業を、経営層に認めさせた対話と説得の軌跡
安定志向という見えない壁:新たな挑戦が直面した組織の重圧
大手企業において、新しいアイデアや事業を推進する際、様々な壁に直面します。その中でも、特に経験豊富な事業開発担当者が共通して感じるのは、「安定志向」という組織文化、そしてそれを体現する経営層の存在かもしれません。既存事業が安定した収益を上げていればいるほど、「なぜ今、リスクを取る必要があるのか?」という問いは強固な壁となります。今回は、このような『安定志向』という見えない壁を乗り越え、既存事業の延長線上にない全く新しい領域での事業を推進した一人の挑戦者の軌跡を追います。
アイデアの源泉:市場の潜在的な変化を捉える
インタビューに応じてくださったのは、A社新規事業開発部門の佐藤様(仮名)です。A社は長年、特定の産業分野で確固たる地位を築いており、安定した収益基盤を持っています。佐藤様が着想したのは、既存の顧客層とは異なる、新たなニーズに応えるデジタルサービスでした。
「既存事業は非常に安定していましたし、社内にも成功体験が根強くありました。しかし、市場全体を見ると、顧客の行動様式や価値観がゆっくりと、しかし確実に変化している兆候が見られました。この変化に対応しなければ、将来的にA社の競争力が失われるという強い危機感がありました。この新しいサービスは、その変化の潮流を捉え、将来の収益の柱となり得るものだと確信していました。」
このアイデアは、既存事業の改善や効率化ではなく、文字通り「既存事業の延長線上にない」ものであり、A社にとっては未知の領域への挑戦を意味していました。
立ちはだかった「安定志向」の壁
佐藤様のアイデアが具体化し、社内での検討が進むにつれて、様々な部署からの懸念や疑問が噴出しました。中でも最も強固な壁として立ちはだかったのが、経営層や、長年会社の成功を支えてきたベテラン層からの「安定志向」に基づく反応でした。
「『なぜ、今の成功モデルを変える必要があるのか?』『その市場は本当に存在するのか?』『投資に見合うリターンがあるのか?』といった、当然の問いかけが多くありました。特に、既存事業で安定した成果を出している方々からは、『リソースを既存事業に集中すべきだ』という意見も根強かったですね。」
佐藤様は、これらの声の背景にあるのは、単なる反対ではなく、会社への責任感やリスク回避の意識であることを理解していました。しかし、同時に、それが新しい芽を摘み取る可能性も感じていました。
「最も難しかったのは、短期的なデータや予測が乏しい新規事業の価値を、長期的な視点で評価してもらうことでした。既存事業の指標では測れない価値を、どのように説明すれば響くのか、試行錯誤の連続でした。」
特に、役員会での承認プロセスは大きな難関でした。既存事業の成功ロジックに慣れ親しんだ経営層に対して、不確実性の高い新しいロジックで事業の必要性を説くことは、容易ではなかったといいます。
困難克服への道のり:データと対話、そして「ストーリー」
佐藤様は、この「安定志向」の壁を乗り越えるために、多角的なアプローチを取りました。
「まず、徹底的にデータとエビデンスを集めました。市場調査はもちろんですが、潜在顧客へのインタビュー、競合他社の動向、海外市場での類似サービスの事例など、様々な角度から情報を集め、この新しい市場が確かに存在し、成長可能性があることを示そうとしました。既存事業のデータと比較して規模が小さくても、その『変化率』や『将来性』に焦点を当てて説明しました。」
しかし、データだけでは十分ではありませんでした。特に、経営層の持つ「安定志向」は、データに基づいた論理だけでは動かない深層心理に根ざしている場合が多いからです。そこで佐藤様は、「対話」と「ストーリー」の力を重視しました。
「何度も、様々な機会を捉えて経営層の方々と個別に話しました。単に事業計画を説明するだけでなく、なぜ私がこの事業を重要だと考えるのか、実現することで社会や顧客にどのようなインパクトを与えられるのか、といった私の『想い』を伝えるようにしました。彼らの懸念にも真摯に耳を傾け、『リスクがない』と言うのではなく、『リスクをどのようにマネジメントしていくか』を具体的に説明しました。」
特に効果的だったのは、「小さく始める」ことを提案し、リスクを限定した形でのPoC(概念実証)の承認を得たことでした。
「『まずは、この小さな予算で、限定された範囲で試させてください。そこで得られたデータを見て、改めて拡大するかどうか判断しましょう』と提案しました。これならば、大規模な投資のリスクを回避でき、経営層も一歩踏み出しやすくなります。PoCの段階では、期待以上のポジティブな顧客反応が得られ、これが強力な後押しとなりました。」
また、社内の有志メンバーを巻き込み、非公式な形でアイデアを共有し、支持者を増やすことも意識的に行いました。
「『このアイデアは面白い』『ぜひ実現したい』と感じてくれる仲間を増やすことで、社内に小さな『ムーブメント』を起こそうとしました。こうした現場からの声も、経営層が意思決定をする上で無視できない要素になります。」
データによる論理的な説得力、関係者との粘り強い対話、そして実現したい未来像を語るストーリーテリング。これらを組み合わせることで、佐藤様は少しずつ組織の硬い殻を破っていきました。
成果とそこから得られた学び
佐藤様の粘り強い活動の結果、提案した新規事業はPoCを経て、小規模ながら正式な事業として承認され、現在進行中です。まだ道のりは長いものの、社内に新しい風を吹き込みつつあります。
この経験から佐藤様が得た最も重要な学びは、「組織を動かすには、論理だけでなく感情に訴えかける『ストーリー』と、関係者を『巻き込む力』が不可欠である」ということです。
「特に安定志向が強い組織では、データだけではなかなか動けません。なぜその事業が必要なのか、実現したら何が変わるのかという未来のビジョンを、相手が自分事として捉えられるようなストーリーで語ることが重要です。そして、一人で抱え込まず、社内外の協力者を増やし、共に推進していく姿勢が、組織の壁を突破する力になります。」
また、「小さな成功を積み重ねる」ことの重要性も学びました。
「最初から完璧な計画を求めすぎず、まずはリスクを抑えた形で実行し、その結果をフィードバックしながら進めるアプローチは、特に不確実性の高い新規事業においては有効だと感じました。小さな成功は、社内の懐疑的な見方を変える一番の説得材料になります。」
まとめ:変化への適応を阻む組織の重力にどう抗うか
今回の佐藤様の軌跡は、安定志向という、多くの大企業に潜在する組織の壁を乗り越えるための貴重な示唆を与えてくれます。既存の成功体験やリスク回避の心理から生まれる抵抗は、論理だけでは崩しにくいものです。
そこには、単なるデータや分析に留まらない、市場の変化への強い危機感と、実現したい未来への情熱が必要です。そして、その情熱を周囲に伝え、共感を生み、組織全体を巻き込んでいくコミュニケーション能力が試されます。また、最初から大きな成果を目指すのではなく、リスクを限定した形で小さく始め、段階的に組織の承認と信頼を得ていく戦略も有効です。
組織の『安定志向』は、変化への適応を阻む重力のようなものです。しかし、その重力に抗い、新たな軌跡を描くことは可能です。それには、挑戦者の揺るぎない信念と、組織という複雑な生命体を理解し、丁寧に働きかけていく根気強さが求められると言えるでしょう。