『なぜその手法を?』:組織の慣習と向き合い、アジャイル開発を根付かせた軌跡
変化を求めた新規事業開発の現場で
新規事業開発において、市場の変化に迅速に対応し、顧客のフィードバックを素早く取り込むことは極めて重要です。しかし、多くの大手企業では、厳格な計画に基づいたウォーターフォール型の開発プロセスが主流であり、このスピード感や柔軟性の確保が大きな課題となります。
今回お話を伺ったのは、大手電機メーカーの新規事業開発部門で、新しいIoTサービスの立ち上げを主導されたA氏です。A氏は、従来のプロセスでは変化の激しい市場のニーズに応えきれないという強い危機感を抱き、アジャイル開発手法の導入を決意しました。しかし、その道のりは平坦ではありませんでした。
アジャイル導入に立ちはだかった組織の壁
A氏が最初に直面したのは、組織内の強い抵抗でした。「なぜ今さら、そんな計画性のない手法を使う必要があるのか」「従来のやり方で問題ないだろう」「失敗したらどうするのか」といった声が多く聞かれました。特に、仕様を完全に Fix し、綿密な計画を立ててから実行に移すという長年の慣習が根強く、アジャイルの「変化を許容し、探求的に進める」という考え方自体が、組織の文化になじまなかったのです。
さらに、関連部署との連携も課題となりました。営業部門からは「いつまでに、どのような機能が提供されるのか、明確な計画がないと顧客に説明できない」という懸念が、管理部門からは「開発途中で仕様が変わると、予算や人員計画が立てにくい」という指摘がありました。また、既存事業の評価指標である「計画に対する進捗率」や「決められた仕様の達成度」では、アジャイル開発の成果(例えば、早期の市場投入、顧客からのフィードバック反映による価値向上)を適切に評価できないという問題も浮上しました。
抵抗を乗り越えるための粘り強い対話と小さな成功
こうした組織的な壁に対し、A氏は最初から全社的な変革を目指すのではなく、まず自身のチーム内でアジャイル開発を試験的に導入することを試みました。比較的小規模で、既存事業への影響が少ない新規サービス開発を選び、実際にアジャイルプロセスで開発を進めることで、そのメリットを体感してもらうことを目指したのです。
プロジェクト進行中は、関係部署に対して週次のデモや進捗報告を欠かさず行いました。単に「スプリントでXX機能を開発しました」と報告するのではなく、「顧客からのフィードバックを受けて、この機能をこのように変更しました。その結果、顧客満足度がXX%向上する見込みです」といったように、アジャイル開発がビジネス価値にいかに貢献しているかを具体的に伝えることに注力しました。また、関連部署からの懸念や質問には、一つ一つ丁寧に耳を傾け、アジャイルの考え方やプロセスについて根気強く説明を行いました。ワークショップ形式で、一緒にプロダクトバックログ作成やスプリント計画の一部を体験してもらうといった工夫も凝らしました。
特に、評価の問題については、経営層に対し、新規事業においては不確実性が高く、計画通りに進めること自体が困難であること、むしろ市場の変化に素早く適応し、早期に顧客価値を提供することこそが重要であることを粘り強く説明し、従来の指標に加えて「学習速度」や「顧客への価値提供度」といった新たな評価軸を導入することの必要性を訴えました。
こうした地道な活動の結果、パイロットプロジェクトは短期間でプロトタイプを市場投入し、顧客からの高い評価を得ることに成功しました。この小さな成功事例が、社内の懐疑的な見方を変える大きなきっかけとなりました。「アジャイルは本当にスピードが出る」「変化に強くなる」という事実が、言葉ではなく実績として示されたからです。
プロセス変革がもたらした成果と学び
パイロットプロジェクトの成功を受けて、徐々に他の新規事業開発チームにもアジャイルの手法が広がり始めました。全社的な導入にはまだ時間を要しますが、少なくとも新規事業開発の現場においては、プロセス変革が進み、市場への適応力が高まっています。関係部署との連携においても、定期的なデモや早期からの巻き込みによって、以前よりもスムーズなコミュニケーションが可能になりました。
A氏はこの経験から、組織の慣習を変えることは非常に困難だが、以下の点が重要であると語っています。
- 小さな成功事例を積み重ねる: 大規模な変革を一気に進めるのではなく、まず影響範囲の小さい場所で成功事例を作り、その効果を具体的に示すことが説得力を持ちます。
- 関係者を巻き込み、丁寧な対話を行う: 懸念を示す人々は、単に変化を嫌っているのではなく、新しいやり方への不安や、自身の業務への影響を心配している場合が多いです。彼らの声に真摯に耳を傾け、メリットやプロセスを丁寧に説明し、共に考える姿勢が不可欠です。
- 評価方法との整合性を図る: どのような手法を導入しても、それが組織の評価システムと乖離していると、定着は難しいです。新しい手法に合った評価軸を提案し、承認を得るための活動が重要です。
- 失敗を学びの機会と捉える文化を作る: アジャイルは試行錯誤を前提とします。失敗から学び、改善していくプロセスこそが価値であることを理解してもらうためには、心理的安全性を確保し、失敗を責めるのではなく共有する文化を醸成する必要があります。
まとめ
大手企業において、長年の慣習に根差した開発プロセスを変革することは、組織文化そのものに深く関わる困難な挑戦です。アジャイル開発のような新しい手法の導入は、単に技術的な側面だけでなく、人々の考え方や働き方、さらには評価システムといった組織全体に関わる変革を伴います。A氏の軌跡は、こうした組織的な抵抗に対し、焦らず、小さな成功を積み重ね、関係者との粘り強い対話を通じて信頼関係を築きながら、着実に変化を広げていくことの重要性を示しています。組織内での新しいプロジェクトやイノベーション推進において、プロセスや手法の導入・変更を考えている方々にとって、そのリアルな苦闘と克服のストーリーは、きっと多くの示唆を与えてくれるでしょう。